Profile

渡辺 勇大 Yuta Watanabe

東京都杉並区に生まれ、両親が共働きのため0歳から保育園に通う。 小学校に入学後、何かスポーツをと初め学童野球の体験に行ったが、何でもないノック球を見事にトンネルしたことから挫折。その後両親の影響でバドミントンを始めることになる。 小学校1年時に初めて出場した杉並区の大会では、1回戦敗退という負けの競技人生からスタートした。 小学校2年時から小平ジュニアに入部しバドミントンの楽しさを学んだ。遊びとバドミントンを良い意味で区別して楽しんでいたことが続けられた最大の要因だと考える。 中学は父親の同郷で一つ後輩が総監督を勤めていた福島県富岡町立第一中学校に半ば強引に選択肢を与えられず進学させられる。入学式翌日に大泣きしながら「朝練が辛いから辞める」と父親に電話をしたが、「辞めてもいいよ、家まで走って帰ってきなさい。でも玄関の鍵は閉めておくから」との返答に潔く諦め、続けることになったと言うエピソードは有名な話である。 また、東日本大震災では町が大きな津波に襲われたことで、自然災害の恐ろしさを経験した。学校も寮も福島第一原発から10㎞圏内で帰還困難区域に指定されたため、猪苗代に拠点を移して活動を続けた。震災前の活動場所であった富岡町、震災後の活動場所となった猪苗代町、双方の町の方々、福島県の応援・支援のおかげで活動を続けることができた。 中学3年生の時、第5腰椎分離症の怪我で約4か月練習が出来ない時期を過ごしたが、しっかり休むことの大切さを学んだことと、監督をはじめスタッフの理解があったことが後々の成長に大きく影響したと言える。 福島県立富岡高校に進学し、高校1年生の選抜で初めて日本一(ダブルス)になる。彼のプレースタイルは当時指導を受けていたインドネシア人のコーチの影響が強く、そこで指導されたことが自由なプレー(発想)の原点となっている。コーチは将来的にシングル、ダブルスどちらに進ませるべきか迷ったようだが、最終的には本人の意思が尊重された。 高校卒業後、日本ユニシス株式会社(現BIPROGY)に入社し、100年以上の最も歴史のある全英オープンにおいてダブルス、混合ダブルスで日本人史上初の優勝また、アジア選手権においてダブルスで日本人初優勝等の実績を残した。 迎えた東京2020オリンピックはダブルス、混合ダブルスの2種目での出場。その結果、どの選手よりも多い10試合を戦い抜き、混合ダブルス日本人初の同種目銅メダルの獲得、ダブルス5位入賞を果たした。

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